13.道具としてのギター(2)

13.道具としてのギター(2)

 何事を行うにしても「良い道具」というのは必要です。しかし、道具は結局のところ道具でしかなく、決してそれ以上のものではありません。
 ギターにしても然(しか)り(同じこと)、いくら「高いギター」を手に入れたところで、弾く人が下手なら宝の持ち腐れとなってしまうことでしょう。逆に、名手が弾けば「安いギター」からでも素晴らしい音楽をそこから生み出すことができます。

 だったら「良いギター」など必要ないじゃないか、等と短絡して考えてはいけません。確かに安物のギターを使ってもある程度の演奏はできますが、私自身の経験からして、その場合は実に大変な苦労をして『ギターの操作』を行う必要があるのです。

 『ギターの操作』に対しての注意力は少なくして、主な意識を音楽的なことに用いた方が更に良い演奏ができることは事実です。
 無理に制御しにくいギターを使う必要はないのです。自分の意志に従ってくれる楽器があるならば、やはりそうした楽器を使う方が合理的です。
 そう、私にとって「良いギター」とは私の要求に良く応えてくれる楽器のことです。反応(レスポンス)の良い楽器ということになるのでしょうか。

 下手なデタッチ(例えばダブルデタッチ)で弾けば、そのデタッチにふさわしいノイズ(雑音=爪の背にあたる音)が出て、縦振動を多くして弾けば「+系の音(柔らかい音)」が出るといった具合です。
 そして、弦振幅が大きければ大きな音が出て、小さければ小さい音が出る楽器が「良い楽器」ということになります。
 そうっと弾いても大きな音が出たり、乱暴に弾いても美しい音が出る等といった楽器だったら、弾いていてズッコケてしまいます。自分の予期せぬ反応が起こったら気持ちが悪いものです。

 道具として、ギターの構造上の機能がしっかり備わっていて、反応が敏感ならば私はそれで大満足です。
 ギターが道具であるということは、演奏レベルの責任がギターにはないということになります。演奏するのは人間であって、その人の心にある音楽を実際に音として再現するのが楽器なのです。

 そのとき、演奏する人には楽器のコントロールという技術が必要なことは言うまでもありません。そのコントロール技術のことを「演奏表現技術」と呼ぶわけです。
 そうしたコントロールをしやすい楽器が、「使いやすい、良い道具としてのギター」なのです。
 たかだかそれだけのことしかギターには求めていないのですが、それだけのことが備わっていないギターが大半なのです。

 その原因の大きな要素が「ギタリストとギター製作家の関係」にあるということを前回は述べました。
 だからといって、そのギターが「悪い楽器である」と言っているのではありません。そもそも、ギター自体に良いも悪いもないのです。ギターを弾く人の要求を満たしているかどうかという評価があるだけなのです。

 ダブルデタッチで、雑音を発生させながら弾く人にとっては従来のギターのほうが「良い音」が出ます。反応の良いギターを使うと、かえって雑音だらけの演奏になってしまうことでしょう。そういう人には反応の敏感でないギターの方が価値が高いと言えます。

 もう一つ、ギターに限らずすべての物には「粗悪品」というものも存在します。
 先程、ギター自体に良いも悪いもないと述べましたが、それはまっとうに作られた楽器の場合であり「利益追求のみの目的」で作られたようなギターのことは対象外としていますので、勘違いしないように。

 また、そういう悪質な楽器ではなくても製作家の製作技術が未熟で、自分の意図する性能のギターが作れないといった場合もあります。本来ならば、そうした楽器は市場に出てはならないものなのですが、経済性優先の社会(つまり現在の日本)では、そうした未完成品(といっても形だけは完成品と変わらない。内容が未完成なのである)のギターも一人前に楽器店に陳列してあります。

 さて、話は戻ります。
 ジャスティの必要としているギターを手に入れるためには、優れたギター製作家と共同開発をしてゆかねばならないという結論になります。

ジャスティモデルコンサートタイプ
黒沢澄雄氏製作
ジャスティモデル
コンサートタイプ

 実際、そのようにしてジャスティモデルギターは作られていったのです。
 製作家は黒沢澄雄氏でした。
 1本できると「あぁでもない、こうでもない」と批評をし、また、改良された次の作品を手にしては「和音の響きが違う」等と散々勝手なことを要求し、半年に1作のわりで、黒沢澄雄氏には試作品のギターを作って頂きました。

 現在、振り返ってみると氏には多大な忍耐力が要求されたことでしょう。別に、ジャスティに認められなくても既に一流ギター製作家としての名声をお持ちでいらっしゃるわけで、自分の自信作のギターに一々ケチをつけられるようなことを敢えてしなくても良いのですから。

 しかし、頭の下がる思いですが、黒沢澄雄氏は未来の名器を目指して黙々と(でもなかった)試作品を作り続けてくださったのです。
 ところが、氏はそれも越えて私の要求する「道具としてのギター」レベルから弾く人の演奏意欲をかき立てるような『美しい響きを持つギター』を作り出してしまいました。ここに至って、私の役目は終わりました。

 後は黒沢澄雄氏の情熱によって更に素晴らしいギターに改良されてゆくことでしょう。
 もはや私の手を離れたところで、ギター製作家の創造意欲、良心といった原動力によって改良がなされて行くことと思います。

 そうしたギターが存在するということは、おそらく皆さんの想像をはるかに越えた意味深い意義があるのです。
 そのことは皆さんが長くギターに親しみ、本当に上達した頃、感謝の心を持って理解をすることになります。

 

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