14.人間工学とギターテクニック(1)

14.人間工学とギターテクニック(1)

 1981年から10年以上に渡って、私は順天堂大学医学部のギター部の指導をしてきました。
 そこで私は学生達にギターを教えるわけですが、このクラブの指導をすることは、逆に私にとって大きな勉強になりました。
 何の勉強?
 人間の身体機能の考察についてです。
 私の仕事はギターの弾き方を教えることです。が、ギターを弾くということは、音楽を行う以前に身体運動を行わなければなりません。
 その『運動』を行うためには、筋肉制御の問題等の「運動生理学」を知っておくことが大変有効です。

 ギタークラブの顧問でいらした故真島教授は解剖生理学の権威であられましたが、私の愚にもつかない疑問に辛抱強く答えてくださいました。
 また、学生達は自分自身ギターを弾く身でありますから、より具体的に「ギターを弾く動作と身体機能の関係」について考えを深めてゆきました。
 解剖学(骨格と筋肉の問題)や運動生理学(身体機能の問題)とギターテクニックの関係、そうしたことを深く理解できたのもこの大学のギター部の指導をしていたからだと思います。

 そういう意味で、順天堂大学医学部には多大な恩義を感じています。
 私が解剖学や運動生理学を学び始めた時には、まだギターの基礎的な発音方法を確立してはいませんでした。
 一つの体系(この場合ギターテクニックの体系)を作るには最初に『公理』のようなものが必要です。
 公理とは、物事における現実的な「理に適った原則」のことです。
その原則に適合した根本的な技術のことを基礎テクニックというのでしょう。

 ギターを弾くうえでの根本的なテクニックとは何か?
 それを私は「発音方法」、つまり、弦の振動状態に置いたわけです。当然、弦と演奏者の関係という事柄が次に問題になります。

 演奏者とは即ち爪のことです(音楽を行うためには「音程」を作らねばなりませんから、左指と押弦のことも重要な要素になりますが、それは更にその次のテーマになりますのでここでは触れません)。
 演奏者とギターを結ぶものは「爪と弦」なのです。
 音楽的に何を感じていようと、どんな壮大なヴィジョンを持っていようと結局のところ、演奏者は自分の爪先を媒体としてギターに働きかけることしかできません。

 芸術全般に言えることですが、こうしたことは最後には「精神論」が重要になってきます。そのために、ギターと演奏者を結ぶ関係は「爪と弦との接触にしかない」ということを述べると、あまりにも即物的すぎて、精神的な部分をないがしろにしているように感じる人もいます。

 しかし、誰がどう感じようと現実にはそれだけでしかないのです。
 逆に考えると、たったそれだけの行為を通じてしか発音の操作ができないのに、その微妙なタッチの変化によって千差万別のニュアンスを作り出すことができるのですから、ギターというのは実に優れた表現力を持った楽器なのだといえましょう。
 そのことは次の事実を意味します。

 それは、史上最高の優れたギタリストが弾いてもギターを始めたばかりの初心者が弾いても、そのギターから生み出される基本的な音はほとんど同じ音になるということです。
 これは重要な事実です。

 ある「1音」を弾いた場合(ただし、正しくギターの発音ができるように訓練した人が弾いた場合)、誰が弾いても一定の音色が出るということです。
 演奏者の「その時の気分」には左右されない安定した音が出るということは、それを基礎にして、次には、爪と弦との関係をどのように変化させると、違うニュアンスの音が出せるのかというテーマに進むことができます。

 その変化の積み重ねが、名人と初心者の差になって現れてくるのです。
 だから、音の非常に少ない(音構成も複雑でない)小品を弾いた場合、世界一のギタリストとあなたの演奏を比べても、その差がほとんどないという状態になります。
 これは凄いことではなくて、考えてみれば当たり前のことなのです。
 そうした意味でギターの前では皆、平等なのです。
 そう、平等(JUSTY)なのです。が、現実にはそうではありません。

 しかし、それは真実の姿なのではなくて、間違った現実の姿なのです。
 勿論、現実には真実も間違いもなく、ただ『事実』があるだけなのですが、その現実を作り出している人間に間違いがあるのです。
何度も繰り返して述べているのでしつこいようですが、これまでのギター界のあり方は「ギターの性能に合った正しい弾き方をしている人が皆無に等しかった」ので、その中でたまたま正しい方向に近い弾き方をしていた人がいると、名手だとか名人だとか言われていたのです。

 ところが、その「正しいこと」も部分的な正しさであるために、A氏とB氏では違う部分をマスターしていたりするので混乱が生じます。A氏は(a)の部分が正しいだけなのですが、一つの真実に気付くとそれをもって全体を理解したと考えてしまうことはよくあります。また、その場合(a)のことに関しては確かに真実なので、A氏を取り囲む人々はそちらの方に目を奪われA氏の語る(b)の事柄も真実だと考えてしまうことがあります。

 そこでA氏とB氏、そしてその二人の信奉者の間に紛争が生じたりするのです。
 B氏にしてみればB氏の理解している(b)は確かな事柄ですし、そのB氏の観点から見るとA氏は(b)が明らかに間違っているのに、なぜかしら自信を持ってギターを弾き、しかも大勢の支持(実は(a)を認める人だけの支持に過ぎないのですが)を得ていたりもするのですから、これは問題です。部分で全体を図るということになります。また、それは物事の根本原理を把握していないから起こりえることでもあります。
 学問の世界では16世紀にデカルトがこの混乱に終止符を打ちました。ギターの世界ではこれからそうなるわけです。

 

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