11.芸術と技術(2)

11.芸術と技術(2)

 ある時、私はテレビの前で考え込んでいました。中学生だった頃のことです。
「何故、このブランウン管に映像が出るのだろう? 放送局の電波は単なる長波の信号に過ぎないのに、それがどういうふうに変換されてブランウン管になるのだろうか?」
 そんなことを考えながら、何も映っていないテレビの画面を眺めていたのです。

 すると、どこからともなく部屋に入って来た姉が
「あんた、じ〜っと黙ってテレビを見つめて何考えているのよ」
 と言うので
「いや、テレビの画面てどうして映るのかなって思って・・・・」
 と応えると
「真面目な顔をして何を考えてるのかと思ったらそんなくだらないこと考えていたわけ。スウィッチを入れれば映るわよ」
 と言って、彼女はテレビのスウィッチを入れて部屋から出て行ってしまいました。

 私の姉は何事につけ実に明快な解答を持っている人なのです。
 現代文明ではデカルトの合理的(科学的)思考から始まったといえますが、急速な進歩をした結果、各分野に細分化され、一人の人間がすべての分野に通じることは不可能となっています。
 アリストテレスやレオナルド・ダ・ヴィンチの時代でしたら、いわゆる「万能型天才」という存在もありえたかもしれませんが、現代ではそれは不可能です。

 ちょっと寂しい気持ちもしますが、これは仕方のないこと。人類は総体で能力を発揮するものとして存在しているのでしょう。
 その中で各個人は自分の責任分担を果たしてゆくというのが「社会」の基本的な存在形態なのかもしれません。

 お百姓さんは米を作り、大工さんは家を建て、ギタリストはギターを弾くということなのでしょう。
 だから、私がテレビの仕組みを理解できなくても何ら恥じることはないのです。
 それよりも、そのテレビを利用していかに自分の生活に役立てるかということを考えるべきなのでしょう。

 つまり、ハード面(機械の仕組等の知識)は専門家に任せて、ソフト面(どのようにその機会を利用するのか)を充実させるのかが各個人の責任なのかもしれません。
 テレビゲームにしても同じこと、その機械の仕組みは専門家にしか分かりません。
 そして、プログラマーはその性能を生かしてプログラム(ゲーム)を作り、一般消費者はコントローラーを持ってゲームに興じるとになるのでしょう。
 ゲームをして遊ぶだけでは寂しいものがありますが、その人も違う自分の専門を持っているのです。

 だから・・・・と私は考えます。
 私はコンピューターゲームに関しては「遊ぶ」ことしかできません。良いゲームだと面白く遊べますが、レベルの低いゲームだと遊ぶ気になりません。
 それと同じように、ギターの構造上の問題や技術向上の研究は私たちが一所懸命に考えて、いわゆる一般の生徒さんたちは、気軽に楽しく上達できるというのが、正しいあり方なのだろうと。

 勿論、自分の専門外の事柄について全く無関心であっていいということではなく、ある程度一般的な理解は必要であると思います。
 その事柄についてある程度の知識は絶対に必要です。ただ、完全に理解しなければならないわけではないということなのです。
 それは不可能だから、一般常識(というのも難しいことかもしれませんが)程度以上のことは専門家に任せておいて、必要な時にはその人に尋ねるか、専門書を読んで勉強すれば良いということなのです。

 もし、私がコンピューターゲームを自分で作りたいと思ったら、きっとプログラムの本をたくさん買い込んで勉強することでしょう。
 しかし、そんなことに労力を使うよりも、それはゲームプログラマーに任せておいて、私自身はギターの研究をすることの方に精力を注いだ方が良いと思います(実際には、5種類くらいのゲームは作りましたが、そのときは20冊くらいの専門書を読みました)。

 さて、問題は「芸術」についてです。これはギターを弾く私たちの立場で考えると、演奏表現ということになるのでしょうか。
 誰だって、ギターを弾こうと思ったら美しい音で、しかも聴く人にうっとりとされるような感動的な演奏をしたいと思うことでしょう。それが『一般的な欲求』です。

 それがテレビを観ることだったら「画面はくっきりと、美しい色で」という欲求になるわけです。
 そのために私たちができることは、微調整つまみを回すことです。
 それ以上のことはテレビ製作会社の技術者に任せるしかありません。
 そのテレビが良く映らなかったら、違うメーカーの性能の良いテレビを買うことになります。

 ギターの演奏技術修得にも同じことがいえるように思います。
 結局、一般ギターファンは自分で演奏技術を修得することはできません。そのためには膨大な研究時間と才能が必要です。
 しかし、誰かが上達のためのメソードを開発したならば、そのメソードに沿って練習すれば意外と短期間で上達するものです。

 テレビの微調整つまみを回すこと程度の努力で上達するのは不可能ですが、ある程度の労力を要せば相当以上にギターを弾けるようになるでしょう。
 その場合、不良品のテレビを買ってしまったら、または、性能の著しく劣るテレビを買ってしまったら、何をどのようにいじってもそのテレビから美しい画像を観ることはできません。
 相当のレベルの人でもそのテレビを改造して美しい画像を作ることはできないでしょう。

 だから、メーカーは責任を持って製品を開発しなければなりませんし、ユーザーはよく選んで買うべきなのでしょう。
 そんなことを考え、私はより性能の高い製品(テキスト)を作ろうと決心したのです。
 そして、でき上がったのが「ジャスティメソードによるギターテキスト1・2」というわけなのです。

 

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