10.芸術と技術(1)

10.芸術と技術(1)

 「おとぎ話の王子でも昔はとても食べられないアイスクリーム・・・・・・僕は王子ではないけれどアイスクリームを食べられる」こんな内容の歌があります。

 青春時代に観た「華麗なるギャッツビー」という映画では、1930年代のニューヨークが舞台でしたが、大金持ちも夏の暑さにまいっているシーンがありました。

 けれど、現在の日本にいる私は貧乏(?)ですけれど、真夏でもクーラーのおかげで涼しく爽やかな気分でギターを弾いています。
 私はいつも思うのです。時代をさかのぼって考えると、私たちは昔だったらどんな王様にもできなかったほど、ぜいたくな暮しをしているのではないだろうかと。

 そうした過去と比較すれば、例え現在の一般水準より生活レベルが低くても充分幸福であると思うのですが、何故か普通の人々はそう思わないようなのです。
 昔は昔、今は今なのでしょうか。

 時代と共に人々の「価値基準」は変化してゆくものなのかもしれません。
 初めてテレビが登場した頃は、13インチの白黒画面で、しかも解像力も低く、ぼうっとした映像でしかなかったものですが、昭和30年初頭の人々には感動を与えました。

 クーラーが登場した頃も、現在ほど性能は高くなかった筈ですが、当時の人々には驚異の電気製品として迎えられました。
 もし、昭和40年のクーラーが現在の電気店に置いてあったとしたら、故障しているんではないかと思われるほど、平成時代には技術が進歩しています。

 これは電気製品に限ったことではなく、スポーツの世界、学術の世界、その他多くの分野でも同じこと、情報の集中・分析のテクノロジーが進歩した結果、人類全体の文化が統合され、各分野の急速な発展が可能になったのです。
 それまでは、人類が地域ごとに各々の独自な生活文化を持って存在していたのに、産業革命以降は交通・通信手段の飛躍的な発達と共に、現在に至るまで急速に人類は統合の方向に向かって歴史を刻んでいるのでしょう。
 その過渡期の弊害として、これまでは問題になりえなかった民族の扮装という問題もここにきてクローズアップされるようになっています。

 そうした世界的規模の問題はさておき、ギターのことに目を転じましょう。
 産業・科学の世界では情報の統合、各研究者の相互刺激等により急速な発展劇が見られましたが、残念ながら「芸術」の分野ではその特殊な性質のためにそうした現象が起こりませんでした。おそらく、そうなるのは21世紀以降のことなのでしょう。

 いわゆる科学的合理性というのは「実験による証明」という基盤によって成立するものです。それに対し、芸術というものは各個人の人間の主観的な感覚によって支えられています。

 例えば「おいしい」という感覚が一つを取り上げても、何故、その人がそう感じるのかという理由を誰でも納得がゆくような実証可能な要素として取り出すことができません。

 地域による食文化の相違によっても食べ物に対する意識は変わります。関東では朝食にポピュラーなメニューである納豆は、関西方面では気持ち悪いものとして食べられていません。

 また、その個人のコンディションによっても味の評価が変わります。
 適度に運動して汗を書いた後の一杯のビールのおいしさは、何にも代えがたいほどの幸福感を与えてくれるという人もいます。勿論、そういう人は元々ビールが好きな人なのでしょうが、そのビールをおいしく飲むためにわざわざジョギングをするという人もいるのです。

 冒頭でも述べましたが、私たちは真夏でもアイスクリームを食べることができます。真夏の太陽の暑い光を浴びながら、汗をふきふき食べるアイスクリーム、何とも言えないおいしさを感じる人は多いことと思います。

 「おいしさ」には季節も関係してきます。
 現在の科学技術では、アイスクリームの成分の分析とか、ビールそのものを研究することはできますが、それを食べたり飲んだりした「人間」の気まぐれな反応を一律のものとして予測することはできないのです。

 人間の個々の反応を「原因=結果」の法則として限定できないのですから、各自の心の状態を対象とする芸術という分野の研究はなかなか成立しないのです。
 もっとも、もし「心」が合理的に割り切れるものならば、生命の意味もなくなってしまうでしょう。だから、私たちはこの自由な精神の活動をもっと大切にする必要があるのかもしれません。
 でないと、社会が合理的なシステムで機能すればするほど、逆に人間が不幸になってしまうということにもなりかねませんから。

 話をギターのことに戻しましょう。
 私たちはギターを通して音楽(=芸術)に親しんでいます。そして、この芸術というものは心の文化であり、その文化は各個人の主観的価値基準に立脚しているものであると述べました。
 この主観的価値基準というものが問題なのです。
 それは確かに一律ではきめれられないものであり、個人の心の持ちようは自由であり、他人が踏み込んではならない領域であります。
 一応、現代の心理学はある程度の成果を挙げてはいますが、人の心の働きには未知の部分が多くあります。
 そうした心の部分を扱うのが芸術であり、分からないことが多いのが現状です。

 しかし、だからといって芸術は完全に自由なもので各個人が勝手に価値を決めれば良いものであるのかというと、そういうものでもありません。
 表現というものは表現者の存在だけで成立するものではありません。そこには必ず理解者という存在があるのです。つまり、話ならば聞き手の存在、演劇ならば観客、音楽ならば聴衆というものがあって初めて芸術が成立するものなのです。

 『うにゃにゃんニャー!』
  と叫んで、
 「これはかつてない、素晴らしい最高の名セリフだ。シェイクスピアなんか目じゃない奥深い、人生の深淵を表現したセリフだ」
などと言うのは馬鹿げています。
 勿論、その人が勝手にそう言うのは自由です。ただし、誰も相手にしないでしょうが。

 ある内容を人に伝えようとした場合、そこには共通の表現手段が必要です。言葉に頼るならば言語を用います。
 意志の伝達手段は音声だけでなく、身振り手振りで行われることもあります。犬などは臭いでも相互理解をしているようです。
 そうしたサインが双方に共通のものでないと表現者の意志は伝わりません。

 だから、ギターを弾く私たちにはギターの言語をマスターする必要があります。
 そのとき「ギターの本質」というテーマが浮び上がってくるのです。これはどういういことかというと、ギターという楽器に本来的に備わっている性質というものがあるということであり、演奏者はその構造をよく理解して、ギターの性能を生かすように弾いた方が良いだろうということなのです。

 例えば、私はこの原稿をワープロを使って書いて(打って)いますが、その性能は各社の機種によってバラエティに富んでいるとはいえ、キーボードの文字配列は同じであり(正確には旧JIS規格と新JIS規格の2種がある)そのキーボードの文字配列はある一定法則に沿って定められています。

 それは基本的に人間の指の機能に合わせてサイズやスプリングの強度が決定されているものであり、左右合わせて10本の指がバランスよく使用されるように配慮されています。が、初めてワープロを使う人にとっては両手のすべての指をバランスよく用いることは簡単ではありません。そこで、左右の人差し指、つまり2本の指だけでキーボードを叩いたりするわけです。

 では、それではワープロを使えないかというとそうではないのです。2本の指だけしか使わなくても、10本の指を使った人と同じような結果を出すことができます。
 その代わり、作業効率が随分ダウンすることになるでしょう。

 しかし、それは熟練したワープロ打ちの人と比較した場合であって、共に初心者(未熟練者)同士の場合であったなら、2本指で打った人の方が正確で素早くワープロを打てるかもしれません。が、それは問題外のことです。キーボードもすべての指を使うことを前提として作られているのですから。

 というようにギターも長い歴史を経て、本来的に(音楽を行う楽器としての)いろいろな機能を備えるようになってきて現在に至っているのです。
 その機能をきちんと生かすために(何も考えないとワープロを2本指で打ってしまうので、最初は不自由な感じでもちゃんと10本指で打つように技能を覚えるのと同じように)ギターにも共通の技術があるのです。

 勿論、2本指だけを使ってもワープロが使えるように、技術が足らなくても音楽を行うことはできます。でも「だからワープロは2本指で打ちましょう」等とは誰も言ったりしません。
 ギターの技術も同じなのですが、ワープロほど社会に流布していないので、2本指の熟練者(先生)が未熟練者(生徒)に偏った技術を教えているのが現状です。だから、私にはそれを否定することはできませんが、できれば、すべてのギターファンに正しくギターを弾いてもらいたいと思っています。

 

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