7.デタッチの発見(2)

7.デタッチの発見(2)

 ギターという楽器の魅力は、絶対的な美しい音色にあります。
 しかも、その音色は一種類だけでなく、無限に近いニュアンス(色調(しきちょう))を持っているのです。ギターで弾く音楽は単なる「音構成」の音楽ではなく、人間の心に直接はたらきかける「真実の音に彩(いろど)られた」音楽なのです。
 こうした意味の言葉は、過去から現在に至るまでの多くのギタリストたちが述べています。

 ところが、実際に自分でギターを弾いてみますと、そうした絶妙な音色のニュアンスの弾き分けは簡単にはできないものです。
 ギターにはそうした性能があるのですが、演奏する側にそれを引き出す能力が欠けている場合、結果的にその魅力は無いことと同じになってしまいます。

 ここに大きな問題があります。
 ギターは素晴らしい、しかし、自分はうまく弾けないという問題です。
 自分が物事を行おうとする場合、いくら優れた他人を知っていても、その事実が自分の役に立たなければ意味はありません。
 そこで優れた他人を模範として「自分自身の方法」というものを確立してゆくことになるわけです。

 では、過去のギタリストたちはどのようにギターの音色を作っていたのでしょうか。
 私の体験上の結論は、既に述べたとおり、残念ながらこのことに関してはごく一部のギタリスト以外はギターのそうした性能を発揮させることができなかったというものです。

 そして、現在までに教本を書いたギタリスト達はこうしたテーマに関してはあまり参考になる記述をしていません。おそらくギターのこうした性能をフルに発揮させたギタリストはアンドレス・セゴビアが最初であったと思われます。

 しかし、彼のテクニックは直接次代のギタリストには伝承されませんでした。これはセゴビアがスター音楽家であり、94才で亡くなるまで現役の演奏家であったことが大きな原因であったからなのだと私は考えています。

 私がセゴビアに会った時に、彼のテクニックを解説した教本を出版するつもりはあるのかと質問したところ、97才になったら書くつもりだという答えが返ってきました。
 それが本気だったのか、たんなる社交辞令であったのか今となっては知る術(すべ)もありませんが、セゴビアが自分の演奏法について自ら書いたものを残していないのは事実です。

 セゴビアは私に少々ギターのことを語った後、どういう意味か分かりませんが「後のことはよろしく頼む」と言いました。
 その時私は、これは大変なことになってしまった、セゴビアの遺産を私がきちんと引き継いで教本なりにまとめないといけない、と決心したのです。
 それは1980年。セゴビア87才、私はまだまだ未熟な26才の青年に過ぎなかった夏のことでした。

 それから私の研究が更に続きました。
 セゴビアの音は素晴らしい。これは誰もが認める事実です。
 しかし、何故、セゴビア以外のギタリストは(私も含めて)その魅力的な音が出せないのか?
 誰もがそれを求め、大変な努力をしたにもかかわらず結局のところ現実化することができなかったのです。その挙句(あげく)、セゴビアは特別なのだ、爪の形が違う、太っているからパワーが違う、天性の優れた指を持っている等という理由をつけてこの問題を最後まで追求することをやめてしまうのでした。

 その大きな原因は「原因と結果の不一致」にあると私は考えました。
 例えばオリンピック等で、ある選手が新しい技を使って金メダルを獲得したりすると、次の大会では一流選手はもうその新しい技をマスターしています。
 私の記憶に鮮やかに残っているのは「走り高跳び」の背面跳びという技です。

 現在では背面跳び以外の跳び方でオリンピックに出場してくる選手はいませんが、以前はベリーロールという跳び方で記録を争っていたのです。
それが1968年のメキシコオリンピックでフォスベリーという選手がこの背面跳びを行い、2メートル24センチの世界新記録で見事に金メダルを獲得して以来、全選手が背面跳びに切り替えてしまったのです。

 最近の例では1992年の冬季オリンピックにおけるジャンプ競技で「V字ジャンプ」が急に脚光を浴びてきました。
ジャンプする時にこれまではスキーをぴたっと揃えていたのですが、このスキーをVの形に開くとより遠くに跳べることが分かってきたのです。

 こうした出来事はそう度々あるわけではありませんが、とにかくそれまでの常識を打ち破った例であるといえます。
 そして、こうしたスポーツ世界の場合は改革したことが「形として」他の人にもよく分かります。
 だから、この場合は「原因と結果」の関係が分かりやすいといえます。

 しかし、マラソンのような競技の場合は、その瞬間にやっていることは皆同じようなことです。特別な走法で走るということはありません。それよりもそこに至るまでのトレーニング方法にポイントがあるのです。
 努力と成績の因果関係が分かりにくくなる例です。
 話は戻りますが、先程の「走り高跳び」の場合、なぜ背面跳びが登場するまでに長い時間がかかったのでしょうか。

 これは私の想像ですが、そもそもオリンピックの競技はギリシャの軍隊の訓練から発達したものですから「走り高跳び」も最初は、戦いの装備をしたまま跳ぶ競技だったのではないでしょうか。だから、背中から跳ぶ等ということはありえなかったわけです。

 それが、次代の流れと共に競技内容が「バーを跳び越える競技」に変化してゆき、最初の目的と違う競技になってしまっていたのです。
 しかし、伝統というか常識というか、そういうものが作用して、正面から跳ぶという考えから脱出するには天才的な発想の転換が必要だったのでしょう。

 また、正面から跳ぶという技術もそれまでは開発の余地があり、記録は毎年更新されていたわけですから、新しい跳び方に移行する必要もそれほどなかったのでしょう。
 ベリーロールでの記録が限界に近付いてきたから背面跳びへの転換もスムーズに行われたのかもしれません。

 それと似たことがギターにも言えます。

爪を使ったアグアド 指頭奏法を主張したソル ソルと人気を二分した
ジュリアーニ

 ギターの演奏技術も時代と共に変化して来ています。
つまり、フェルナンド・ソルの時代のギターは現在よりも非常に小さなサイズのものでした。
 それは「音楽会」の会場が現在とは違い、主に貴族のサロン等で催されたために、それほど大きな音量は求められなかったからと考えられます。
 現にソルの「エチュード集」の扉の言葉には「なるべく小さな音で弾くように。そうすれば余韻の長い音となって、曲想がより豊かになるでしょう・・・・」等という注意書きがなされているくらいですから。

 この時代を代表するギタリストにはスペイン出身のマテオ・カルカッシ、フェルディナンド・カルッリ等がいますが、時代を代表するギタリストとしてはソルとジュリアーニ、アグアドの三人が挙げられると思います。
 また、ソルとアグアドは非常に仲が良く、お互いに優れた音楽家として尊敬し合っていました。

 しかし、奏法的にはこの二人は全く違う技術を使っていました。
 ソルは爪を使わずに「指頭奏法」を主張していましたし、アグアドは爪のみの奏法を提唱していたのです。
 二人の残した教本にはそのテクニックが解説されていますが、互いに相手の奏法の利点も述べられています。
主張は違っても互いのテクニックについては大変認め合っていたのでしょう。

 また、この時代、音楽はまだ貴族のものでした。それが、産業革命と共に、ブルジョワジーに開放され始めた時代でもあります。
 そして、そうした社会の流れと共に、音楽会も一般市民が参加をし始めました。
と同時に会場も広くなり、楽器にも「音量」が求められるようになりました。
 そうした歴史的背景と共にピアノの発達がありました。
 ここでギターは一度、歴史の表面からは姿を消します。

 そして、楽器製作面ではアントニオ・トーレス、演奏・作曲面ではフランシスコ・タルレガを得て、再び歴史の表面に登場することになるのです。
 この時、ギターはピアノの性能にも負けない魅力、「美しい音色」をもって再登場してきたのです。

 そこで初めて「音色の追求」が行われたのでした。
その最初のギタリストがタルレガでしたが、タルレガは生涯にわたって「指頭奏法」と「爪奏法」の間を行き来し、爪を伸ばしたり切ったりを繰り返しました。

 そして、最後に得た結論が「指頭奏法」であり、弟子達にはそれが正しい姿だと述べてこの世を去りましたが、棺に横たわるタルレガの指先の爪は「爪奏法」を行うために丁寧に手入れされていたということです。

 しかし、この時代、ギターに張られていたのは「ガット弦」、すなわち羊の腸をよじって紐にしたものでした。
 現在のナイロン弦とでは性能があまりにも違います。また、タッチした際の爪との関わり合い方も随分違うものがあります。

 にもかかわらず、タルレガがあまりにも偉大だったためか、現代において「指頭奏法と爪奏法のどちらが優れているかという問題について・・・・」等と論争をしているギタリストがいますが、これはナンセンスなテーマであると言えましょう。

 現在ではナイロン弦を用いる前提で製作家もギターを作っています。弾く人もそれに合わせた奏法で弾くのが正しいあり方です。
 例えがが長くなりましたが、結局のところ私たちは時代に合わせた奏法でギターを弾くべきであるということになります。

 そして、20世紀後半はアンドレス・セゴビアの開拓していった方向でギターを弾くのが歴史的に正しい姿なのだと私は考えています。
勿論、21世紀前半に向けてはセゴビアを越えて、更に魅力あふれる演奏ができるようになってゆかねばなりませんが。

 で、セゴビアの方法というのが、非常に浅いタッチで、爪の先をわずかに弦に接触させて、その面積を弦でプッシュし、速やかにデタッチ(離弦する)ということです。
 そうすることによって、弦には程よい振動を与えられるのです。

 前回にも述べましたが、ギターの側に立って奏法を考えますと、指で弾こうが爪で弾こうが、それはどうでもよいことなのです。
 そして、弦にある「たわみ」を与えたら、できる限りスムースにデタッチ(離弦)するということが演奏者側の問題となります。

 このデタッチをどう行うかということが実は大きな問題で、ほとんどのギタリストはせっかく弦にエネルギーを与えておきながら、最初の瞬間にその弦の振動エネルギーを爪の外側で吸収してしまっています。
 そして、その「爪の再接触」が雑音のもとにもなっているのです。
しかし、この事実はなかなか「感覚的な把握」が難しいので、優れた教師のレッスンを受けない限りマスターすることができないように思えます。

 大半のギターファンは、爪の接触面の問題が雑音が出るものという感覚を持ちます。
そこで爪ヤスリで(しかも1000番、2000番という細かな紙ヤスリまで使って)神経質に、爪の内側がスベスベになるまで磨いて、それでも雑音を出しながらギターを弾くということを行っています。
 これは悲劇ですが、皆さんはそういうことのないように基本科・本科・専科と順を追って合理的なデタッチの方法をマスターしてゆくことになっています。

 

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