3.真実を求めて

3.真実を求めて

 宮本武蔵や姿三四郎という英雄豪傑に憧れることは、少年時代にはよくあることだと思います。私の少年時代には中村錦之助の演じる「宮本武蔵」の映画や「柔」「柔道一直線」等というテレビドラマが大ヒットしていました。従って、私も柔道着などを肩に掛けて近所の『道場』に通ったものです。

 何のために?
 勿論、世界一強くなるためです。
 実に単純なものです。今考えれば、恥ずかしくて消し去りたくなるような自分の歴史です。結局、柔道とは十年近くつき合うことになるのですが、たいして強くなったようには思えません。

 まあ、そんな話はさておいて、こうしたテレビドラマを見ていて、私にはいつも不思議に思えたことがあります。
 それは、主人公が常に異常に強すぎるということです。これは実に不思議なことに思えました。逆に、強いから主人公なのだとも言えますが、主人公はただ強いというだけではないのです。彼の強さはまた、進化する強さでもあるのです。

 もし、主人公が誰かに負けたとしても、何故かもう一度戦うことが出来るのです。そして、次の機会までに彼は『修行』をするのです。その修行というのがまた曲者で、普通のものではなく「強くなる特効薬」のようなものであり、新しい技を身に付けた主人公は見事に強敵を倒してしまうのです。
 いろいろな物語がありますが、それらはストーリーは違っても、パターンは大体同じようなものでした。

 こうしたドラマを観ていて、少年時代の私は「何故、相手は修行をしないのだろう?」または「何故、相手の修行は非能率的なのだろう?」と考えました。
 よほどのひどい物語でない限り、敵も一所懸命に修練を積んでいるのに、その修行の成果が結果に結びつかないのです。

 そうした物語の話だけでなく、現実の体験でもこのような不公平は数多くみることになりました。
 勉強にしても、スポーツにしても「能力の高い者」はわずかな努力で大きな成果を挙げるのに、いわゆる「出来ない子供」は単に努力が足らないだけでなく、相当の時間をその修練に費やしても、やはり、優秀にはなれないもののようでした。

 人間には生まれつき「向き・不向き」というものがあるのでしょうか。または、才能とか素質とかというもので、その人の道が決まってしまうのでしょうか。
 最近の若者文化でも「血液型占い」や「星座占い」等といった「生まれつきの運命」で自分の能力を推し測るようなことが流行しています。それは遊びとしては良いと思いますが、真面目に自分の人生を考える時には決して影響を受けてはならないことだと私は考えています。
 人間というのは何にでも成れるし、何にも成れない存在であるのです。

 例えていえば「コンピューター、ソフトがなければただの箱」ということになるのでしょうか。
 いくら優秀な機能を持つコンピューターがあっても、ソフトがなければそれは何の役にも立ちません。が、もし、ゲームのソフトを入れればゲームになり、ワープロのソフトを入れればワープロに、コンピューターグラフィックのソフトを入れれば絵を描く道具になります。
このようにコンピューターはそれ本体では「性格」がありませんが、何かのソフトを与えると「それ」になる機械と言えましょう。
 人間にあてはめて考えると、ある程度の制約はありますが、生れたばかりの人間は皆同じように「可能性」を秘めた存在です。その存在に『教育』を与えるとそのように育っていきます。

 つまり、アメリカで育った人間は英語を喋るようになりますし、日本で育てば日本語を話すようになります。そればかりでなく、食べものから考え方までその土地の歴史、風俗の影響の中で育っていきます。
 私は日本人です。日本に生を受け、日本語を覚え、日本の教育を受けて育ちました。日本語にある論理、槻念で物事を考える人間です。食べものも習慣も日本的です。

 メキシコのある地方のようにライスに生きた蟻を振り掛けて食べることは出来ないし、それは、考えるだけでちょっと気持ちが悪くなってしまいます。逆にアメリカ人だったらおぞましく思うようなゲテモノであるタコやイカをおいしく食べたりします。
 アメリカの友人達が「良くそんな気味の悪いものを食べられるね」と言ったりして私をからかいますが、私からすれば彼らの食生活も異常に感じられる部分があるわけで、こうしたことはお互いの出身地の違いによる食文化の相違として理解し合わねばならないことなのでしょう。

 それはさておき、そのような「ソフト」を入れられたためにこのような私が育ってきたのだと思います。
 更に考えを進めましょう。
 おそらく、普通の人間であれば誰でもそんなに変わらない「基本性能」を持っているのではないでしょうか?

 ところが、何かを行なう場合、そのためのソフト(教育)を入力する際にちょっとした手違いが起こっていたり、または非常に質の悪いソフトを入れてしまった人は、思うように目的を達せられずに苦労ばかりしてしまうことになります。
 逆にたまたま良いソフトに出会った人は、何をやってもすらすらとこなしてしまうのではないでしょうか。私の経験上、どうもそのように思えてなりません。

 ギターが上手な人は『上手になるような練習方法』を行なった人であり、逆に、下手な人は「下手になるような方法の努力」をしてしまった人なのでしょう。

 人は努力すれば、必ずその成果をあげられるものです!
 ただし、努力の方向が自分の望むものと違う場合ということもあります。その場合は自分の望んだようにはならず、その「努力の方向の成果が挙がる」のです。

 そして、その努力の方向を捜し出すことがまずは第一のテーマなのです。
 不思議なことに正しく生きようとしていると必要な時に必要なことが必要なだけ目の前に現われるものなのです。
 だから、必ず最後に正義は勝つのです。