2.音は口ほどにものを言い?

音は口ほどにものを言い?

前回は、音楽は『音を使う遊び』だという話をしました。今回は、その『音』についてお話しましょう。
音のことを考えるとき、一つの方法として『言葉』と対応して考えてみると面白いと思います。

人間は意志の疎通のために『言葉』を発明しました。
その結果、言葉を使うことによって、より多くの意味を他人に伝えることができるようになったのです。

ところが、赤ん坊の場合は、まだ、言葉の教育を受けていませんから、言語表現ができません。だから
「あ〜あ〜、う〜っ!」
と(言語的には)意味不明の音声を発して何かを伝えようとします。
この「赤ん坊の言葉」をよく観察すると、やはり、楽しい時(と私が思うだけかもしれませんが)には『楽しそう』な音声を発しているように感じます。
逆に、不愉快なときは実に『不快』な響きの音声で訴えかけてきます。

私の自宅の近所にいる「犬」の声にも同じことが言えるように思います。
怪しげな人間(つまり私)が近寄ろうとすると
「ウー、ワァン!ワォン!」
と吠えるくせに、飼い主のおばさんには
「ぅ〜、わぁんわゃん
と、さも甘えているかのような響きで吠えるのです。

殆ど同じような鳴き声でも、実は微妙なニュアンスの相違があることは、皆さんも体験上よく知っていることだと思います。
勿論、人間と犬の『耳の性能』には大きな違いがあり、音の周波数の可聴範囲がずいぶん違います。

どういうことかというと、人間には聴こえない高い波長の音が犬には聴こえるということです。
そういう意味で、人間と犬では「快適な音の高さ」が違うかもしれません。
しかし、犬が「怯えて」吠えているとき、私がその鳴き声を聴いても「不快」な響きを感じることができますし、また、犬が調子に乗って「楽しく」吠えているときにも、やはりその気持ちが分かるように思います。
つまり、人間と犬の『耳の性能』を超えて両者はある程度理解し合える存在のように思うのです。

ところが!
悲しいことに、犬には言語(日本語)がわからないのです。
だから、餌をもっとおいしい物と取り替えようとしても、
(自分の餌をとられてたまるか!)とでも思うのか、なかなか理解してくれません。
彼専用の食器(勿論、中身が入っている)を取ろうとしたら、彼は不安に怯え、ワンワンと吠えたて、それを許してはくれません。
その場合、別の「ごちそう」をしっかり見せて、それと取り替えるようにしないと、先の食器を渡してはくれないのです。
「もっとおいしいごちそうと取り替えるために、このお皿を持っていかなくちゃならないの。後でおいしいごはんをあげるつもりなんだから、このお皿を持っていくよ」
と説明してもダメなのです。
そんなときは『説明』ではなく、『安心』という情報を彼に与えなくてはなりません。
「ほぉ〜ら、ほぉ〜ら、よ〜し、よし」
などと意味のない(言語的には)ことを言いながら、しかも、『安心』『ゆったり』という感じの響きで言って聞かせると、
(なんだかよく分からないけど、この人のことを信じようかな?)とでも思うのか、犬はお皿を不安げに眺めながらも、それを私に任せてくれます。

こうした経験を通して私は思うのです。
『言葉の前に、まず、意志がある』と。
その『意志』をよりよく伝えるために言葉があるのだと思うのですが、実際の社会生活を営んでいると、どうもそうではなく、普段私たちが使っている言葉は、喋る人の心を反映していないこともあるような気がします。
心と裏腹な言葉というのは(それが本来なら心地よい筈の言葉であっても)、なんだか良い感じがしません。
犬と話す場合(?)は、心と言葉が一致していないと話が通じません。
でも、人間同士の会話では、本音を語ると社会的に不都合なことが生じることがよくあります。

例えば、お店の店員が挨拶
「いらっしゃいませ!」とか、
「ありがとうございました」などというセリフを言う場合、本当にありがたく思っているかというとそうでないこともあります。
嫌な客が来ても、そこは商売ですから、
「よくお越しくださいました」と言って、笑顔を見せなくてはなりません。

社会生活を営むためには、自分の気分とは関係なく人と接触しなければなりません。
だから、悪く言えば、社会的に立派な人間というのはほとんど「嘘つき」と言えます。
しかし、社会がそういうシステムなのですから、これは仕方のないことでもあります。
この社会のシステムを変えて、個人の気分で行動しても良いようにすると、基本的には、感情を満たす機械(感情がなく、機能だけがある存在)だけの環境ということになってしまいます。

人間に感情がある限り、人と人の関係は、本音だけではなく、対人関係には礼儀というものが必要なのです。
礼儀と嘘というのは似たような部分もありますが、本質的には全く違うものです。
社会的に立派な人は実は「嘘つき」なのではなく、礼儀正しい人なのです。

さて、いよいよ音楽の話になりますが、音楽には社会的な人間関係は必要ありません。
人間の心の「本質」の部分を語るのが音楽なのです。
言葉がないだけに『意味』のある響きがダイレクトに要求されるのです。
普段私たちが耳にしている『音』は実に雑多で、複雑です。その中の人間の声だけを取り上げても、これまた単純ではありません。

何年ぶりかで、昔の知り合いから電話がかかってきた時、ほとんどの人は一瞬のうちに
「あぁ、○○さん。久しぶり」
などと応えられるのではないかと思います。
チラッと耳にしたテレビの音(タレントやアナウンサーの声)でも、これは△△さんの声だとすぐに分かるのではないでしょうか。
私達はほとんど意識せずに、数千人の声の違いを識別しているのです。
これはすごいことです!
よく、自分のことを
「いやぁ、私は音楽なんてとても・・・・」と、言って謙遜する人がいます。
もっと過激に
「私は、いわゆる音痴でして・・・・」と卑下する人もいますが、とんでもない! そんなことを言っている人のほとんどは素晴らしい耳の持ち主なのです。
だって、何千人もの人の声を見事に聞き分けているのですから、充分に性能の良い耳を持っているのです。
ただ、それが音楽を聴くということの方向に訓練されていないから、それで、音程を当てたりとか、和音を当てたりすることができないというだけのことです。

そういう技術は(これは技術なのです)、普通に音楽を楽しむのにはあまり必要ありません。
まぁ、作曲をする人には、できたら便利だなというくらいのものです。
または、一般の人に
「どうだ、すごいだろう!」とはったりをかまして驚かすことができるかもしれません。

しかし、少なくともこの講座を読んだ皆さんはそうした「単なる技術」にビビルことがないようにしてほしいと思います。
そうした技術を身に付けるために、逆にそうした芸人(?)は、『音』の持つ無限の広がりを味わうことを捨ててしまった人達であることが大半なのです(勿論、モーツァルトのように真に耳の良い人もいますが、それは天才という存在で、普通の人間には関係のない話ですネ)。

『音』。
この音というのは、実態は「空気の振動」です。
物体から発する振動が空気を振るわせ、その空気振動が私達の耳の、いわゆる鼓膜を振るわせ、そして、その鼓膜の振動を神経が脳に伝える、その結果、私たちは音を感じる、そういうことになっています。
その感じ方を「高い」「低い」から、「大きい」「小さい」、「強い」「弱い」、「柔らかい」「固い」、「深い」「浅い」等、それこそきりがないくらいの『感覚表現』で私達は形容します。
 その中の、たまたま「高い・低い」がわかるだけのことを『音楽的能力』だなんて思ってはいけませんということです。
自分に自信をもって、音の持つ無限のニュアンスに耳を傾けましょう。

えっ?もう時間ですか、では音についての具体的な話はまた次回に・・・・。

 

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