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■ ステージに臨む心構え
「ステージに臨む」と一口に言っても、どんな目的でステージを迎えるかという理由は人によって実に様々です。
しかしどんな目的であるにしろ、ステージというものが非日常的なものであるということに変りはありません。いわゆる「本番」ということです。
スポーツの世界でも「練習の時はうまくできるのに、いざ本番となると本来(?)の力の半分も発揮することができない」という人がいます。
もっとも、本番で発揮できる力のことを実力というのであり、それが「本来の力」ということになるのですが・・・・・・。
それはさておき、なぜ「本番」では普段のようにリラックスをすることができないのでしょうか。
運動生理学の分野や脳生理学の分野の研究、また、心理学の分野からの研究報告を整理して芸術家の立場から考えると、
ステージの特殊性を意識することにより、普段は表層意識に昇らない「運動に対する命令機構」(=小脳で司る運動神経)をも大脳がコントロールしようとして混乱が生じるからだと言えます。
分かり易く述べると「本番の大切さ」を意識するあまり普段と違う神経機構で筋肉制御を行うので、普段のようには行動することができないということです。
本番の状態の方が「心」が働くのです。
心のより深いところで考えて行動するのです。
だから、それに慣れていないと混乱したりもします。
しかし、それは避けるべきものではなく逆に素晴らしいことなのです。
ステージではアガることにより「心からギターを弾くこと」ができるのです。
そして、ある程度の経験を積むとそうした興奮状態でもきちんとギターを弾くことができるようになります。
その時こそ、本当の音楽の味わいを知ることができるのです。
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■ 等身大の演奏を
ところで、ステージで演奏するということの意義を考えてみましょう。
人前で演奏するということは、決して自己顕示欲(目立ちたい気持ち)の表れではありません。
人間の社会的動物としての本能から、人は「集団の中における自分の存在の意義を確認したい」また、
「自分の存在を多くの人々にアピールしたい」という欲求を持って人と自分とを比較することによって自分の姿を知るわけです。
背が高いとか、お金持ちであるとかいう評価(自分の位置決めというのもすべて他者との比較のうえから考えられることであり、絶対的な評価ではありません。
現代日本人の生活水準は、百年前から比べたら考えられないほど豊かなもので(物質的には)、貧しい家庭といっても『餓死』する子供や、生活のために年老いた親を山に捨てるなどということはありません。
この現実は驚くべきことであります。現在の世界情勢を見てもヨーロッパ諸国や一部の国家以外では餓死者はあふれているのが、残念ながらも現実の姿なのです。
しかし、そんな事実を知ったところで、現在、まさに私たちが『生活』している日本では「車が欲しい」とか「もっと快適な生活空間を」「素晴らしい音のステレオ」「大画面で音響効果も楽しめるテレビ」etc.などといったものを大半の大衆が求めています。
「よその貧しい国では、ご飯すら食べられないのよ」などと母親が説いても、だからといって、子供のテレビゲームを買い与えないわけにはいきません。
また、そう言われて「そうだ、世の中には恵まれない子供が大勢いるんだ。だから僕のお小遣いはテレビゲームではなくその人たちのために使ってもらおう」などという子供がいたら、嬉しいことかもしれませんが、それは異常です。
そんなことを子供が考えられる「要素」がないからです。
彼らは、「彼らの社会(学校や友人関係)の中でものを考え、比較し、自分の立場を築いているからです。
こうした、その時代、社会の枠を越えて、絶対的な価値あるものを求めるのが芸術のあり方なのです。
ですから、ステージを迎えるにあたっても他人との比較や、そこでなされるであろう人からの「評価」といったものを恐れることなく、自分がやってきたことをそのまま『凝縮された時・空間』で発揮すれば良いのです。
自分の演奏の意味は、それ以上でもそれ以下でもないのです。
ぜひステージを数多く体験して、本物の音楽を知ってください。
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