ギタリストへの道

28.知ること・できること・分かること −28−
 ここでいまさら述べることでもないかもしれませんが、近代文明が発達してきた要因は、デカルトやベーコン等の説いた「科学的合理精神」を基礎にして築かれた「機械の発達」にあると言えるでしょう。
 それは言葉を替えれば「知識の集大成」によるものだとも言えます。
 人類はそれぞれの経験を「交換可能な情報」とし、それを総合して事業を成し、その集積された情報を次世代に託し、更に発展させるというシステムを作ってきました。
 そうすることによって、急速に文明が発達してきたのです。
 その結果、人々の暮しは便利になり、豊かになり、衛生的になりました。
 しかし、貧富の差、資源の枯渇、環境破壊などの問題も生れることになりましたが、その問題はここで論ずるテーマではないので別の機会に回すことにします。
 ここで私が述べたいテーマは、近代文明の基礎となったのは「情報の集積」であり、それは人間の内面には直接関係のない、物質的なものであるということなのです。
 こうした「文明論」の例に原子力のことがよく挙げられます。
 原子力は平和利用をすれば、次代のエネルギー源にもなりますが、兵器として使用すれば恐ろしい原爆にもなります。
 要するに科学的発見(原子力)には善も悪もなく、それを利用する人間によって、どうにでもなるものなのです。
 つまり、科学は人間性には触れていないものなのです。
 「知識」は単に知識以上のものではなく、それは物質に付随するものです。だから原爆を使うのに原子力の知識は要らないのです。
 知識(=機械)は個人(=人間)から離れ、独立して価値を持ちます。その知識を他人がどう使おうと自由です。
 一度完成してしまった機械には、その機械を開発した人の理念(目的意識)も、完成するまでの苦労の歴史も一切含まれません。
 そこには「物」があるだけです。
 それに対し、芸術は個人から独立することはできません。常に人間と共にあります。
 どんなに美しい音も「美しいと感じる人」がいて初めて存在するものです。
 名演奏も下手な演奏も聴く人が評価を下した結果のことを意味しています。人の心が価値を決めるのが芸術なのです。
 人間的要素を取り除いた「絶対的評価」というものはあり得ないのです。
 芸術は知識的評価でなく感覚的評価のうえに成り立っているのです。
 音楽を聴く場合も「知識として聴く」のではなく「感覚として把握して聴く」のです。
 そして、こうした感覚的なものは知識と違い、理屈を知れば理解できるというものではありません。
 物事を感覚的に把握する為には『修練』というものが必要になってきます。
 ギターの基本発音方法を例にとってみましょう。理屈は簡単です。
 「弦に圧力を加え(パワーポイントを集中させて)、一瞬にその支え(爪先)を外し、振動を始めた弦に爪が再接触しないようにする」ということです。
 言葉で言ってしまえば、たったこれだけのことなのですが、これを身体運動をともなってきちんと行うのは大変なことです。
 知らないよりは知っていたほうが良いことですが、知ったからといってすぐできるようになりません。
 「知っていること」と「できること」の間には大きなギャップがあるのです。
 芸術(=演奏)を行うには、音楽(=ギター)を知識として知るだけでなく、自分の身体(神経機構)でその実態を消化しなければならないのです。
 自分の身体を使って、行動を通してできるようになったとき「分かった」という状態を実感として感じることができます。それが分かったということなのです。
 ところが、知識を単に耳にした「知っただけの状態」であるにも関わらず「分かったつもり」になることが私たちにはありがちです。  それは私たちの受けた教育が「知識偏重」の教育で、とにかく知識を詰め込むことに重点を置いた教育だったからかもしれません。
 それはそれで大変重要なことです。ただ、ギターを弾く立場から考えると、それだけでは足らないことがあると言えるのです。
 とにかく「分かる」ためには、その前に自分で「できる」ようになることが必要です。  そのためにどうすれば良いのかを「知っている」と理想的だと言えます。
 普通に考えますと「分かってからできるようになる」ような気がすると思います。ここが難しいところなのです。
 普段のレッスンでも教師はここで苦労をします。
 生徒に対し「教えたい感覚」があっても、それをストレートに「こうです」と言って伝えることができないのです。
 生徒はその感覚を自分で感じるようにならなければなりません。教師としては、知識を伝えることはできますが、そこから先は生徒が実践して自分の力でできるようなったとき、その感覚が分かるようになるのです。
 そして、一度「分かった」ら、それは教師と生徒との共通感覚になります。
 例えば、一度も富士山に登ったことのない人に「登山」の楽しみを説明しても、その内容は理解できないでしょう。ところが、富士山に登ったことがある人同士がその話題で話をすれば(お互いに違った印象を持っていたとしても)話は通じます。
 そのように「共通体験」が先にあった場合には、更に深く理解をするためのアドヴァイスを教師は行えるのです。
 その境地に早く達する為の方法論としてテキストがあります。
 これを知識的にマスターするのではなく、感覚で分かるようになってほしいのです。
 知識はいわゆる左脳の言語中枢で記憶されますが、身体的運動を伴う記憶(技術記憶)はそことは違う部分(海馬部分)にあると言われています。そして、そうした記憶は「詰め込み式暗記方法」では蓄積されるものであると現代の脳生理学は説いています。
 つまり、基本的なテクニックを根気よく、しかも理想的なフォーム・アクションで反復練習することが大切であるということになります。だから、テキストのカリキュラムも、よく見ると同じテーマが姿を変えて(飽きないように)反復されているのです。



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