ギタリストへの道

5.最初の一歩=たった一つの音から −5−
 過去の方法論をすべて否定した時に、ではどうすれば自分の求める目標に到達できるのかという問題が生れます。
 この問いの答えを見出すために私とギターの毎日がありました。
 そして、一つの答えが出るまでに約20年という期間が必要でした。
 こうした問題は、答えが出てしまえばその結論は誰にでもすぐ理解できるものです。その答えとは『正しく音を出す方法の確立』ということです。
 話は変わるようですが、私がギターを弾きたいと思った理由は、その美しい音色に惹かれたからでした。おそらく現在の私が耳にしたなら、とても聴けるようなものではない音色だったと思いますが、小学生だった私は同級生の弾くメロディだけ(?)の「禁じられた遊び」のテーマを聴いた時、あまりの美しさに、しばし呆然としてしまったのです。
 そして、貯金箱をすっかり空にして、早速ギターを手にいれました。それからは、以前にも述べたように「○○ギター教本」を手引きにギターを弾き始めることになるわけです。
 しかし、普通の場合、しばらくすると最初の感激の記憶が薄れてゆき(しかもなかなか上達もしないので)いつの間にかギターを手にしなくなってしまうものです。
 しかも、人間の感性というものは常に変化してゆくものですから、もう一度同じ演奏を聴いたとしても、その時の新鮮な感動はもう味わえません。
 私がそれからもずっとギターを弾き続けたのは、その後、セゴビアのレコードを聴いて何度もギターの魅力を教えられたからです。
 そして、自分でもセゴビアのようにギターを弾けたらどんなに素敵なことだろうと、理屈も何もなく、思い込んでしまったのです。勿論、私の弾くギターの音楽とセゴビアのそれとは似ても似つかないものだったわけですが、それでも、私には喜びがありました。  自分で美しい音楽を奏でることはできなくても、レコードをかければ、そこにはいつでも素晴らしい音楽があったのです。
 私自身が成長し審美眼が養われると、少年時代には憧れだったものが、次々と神秘のヴェールを脱ぎ去り、その魅力を失くしてゆきましたが、その中で、セゴビアの弾くギターはますます輝きを増してゆくのでした。
 といっても、セゴビアの演奏ならば無条件に何でも良いというわけではありません。そうであったら、セゴビアが神のように完璧であるか、私の感性が麻痺して盲目になっているかのいずれかであるということです。セゴビアは非常に優れた音楽家ではありますが、完璧(これも難しい概念ですが)ではないわけです。 セゴビアは偉大でしたが、だからといってその人間の為すことすべてに対して無条件に賛同するほど、私は愚かではなかったようです。セゴビアのギター演奏の中で良いものは非常に魅力的だったということです。
 ところで、そのレコードに入っている曲の楽譜を手に入れてみると、これが実に難しい楽譜でした。それでも、一応どんな音の配列になっているかが分かるくらいには、何とかギターの音に移し替えることはできました。勿論、レコードの中でもわりと容易な感じのする曲に関してのことですが。
 私の考えはこうでした。〔まだ自分はセゴビアの弾く素晴らしい名曲を弾くことはできない。が、その中でもわりと簡単な曲なら弾くことができる。それならば、その曲を猛練習して、セゴビアと同じくらいの美しさで弾けるようになろう〕
 そして、まずタルレガの作曲した「アデリータ」を選んでみました。わずか16小節の小品です。その結果、それほどの努力を要することなくスムースに弾くことができるようになりました。
 ところが!おかしいのです。違うのです。楽譜通りに弾いても、しかもミスもなく流れるように弾いても、出てくる音楽はセゴビアの弾く「アデリータ」とは全く別のものになってしまうのです。
 これは一体どういうわけなのだろうと考えた結果「音楽というものは楽譜に記されている音符の長さ通りに弾くものではないものであり、その曲に合わせた『歌い回し』というものがあって、セゴビアはそれが上手なのに違いない」という結論にたどり着きました。
 そこで、今度はセゴビアの演奏を何度も聴いて『音を出すタイミング』をコピーし始めます。分かりやすくいうと、いわゆる「間」というものを真似ました。
 しかし、それでも違うのです。
 何か根本的なところに大きな違いがあるのでした。テープレコーダーに録音して聴いてみるとその違いは顕著に分かります。
 セゴビアの演奏には三次元的な奥行があるのですが、私の弾く「アデリータ」は薄っぺらく、聴きごたえがないのです。それでいて音の出るタイミングだけはセゴビアの演奏と同じですから、更におかしなことになってしまいます。
 結局のところ、表面だけ真似てもどうにもならないのでした。私のやったことは、例えば空手家の真似をして、ポーズだけは何となく似るようになったけれど、いざ10枚の瓦を割ろうとしたら1〜2枚しか割ることができなかった、ということになるのでしょうか。
 問題はそもそも『音』そのものの違いにあったのです。セゴビアの音がダイアモンドなら私の音は泥団子に過ぎなかったのです。
 泥団子はいくら磨いても輝きません。
 では、どうすれば良いのでしょうか?
 そこから私の戦い(?)が始まりました。「美しい音を出そうと毎日毎日ギターに取り組んで、ついにできたと思ったら60才になっていた」というのはセゴビアの言葉です。そのセゴビアが私の前にいてくれたおかげで、私は33才になった時にやっと答えを見出すことができました。
 それは、ギターそのものを凝視することによって導かれたものでした。デカルトの「方法序説」がたいへん参考になりましたが、とにかく疑って疑って最後に最小の単位まで考え抜いた時、物事の核になる本質が見えてくるものであり、その本質をきちんと捉えないとそのうえに積み重なるすべての事柄は虚しいものになるということです。
 そして、ギターの場合その本質とはたった一つの音だったのです。一つの美しい音が出せた時、その時すべてが始まるのです!


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